年末の誓い

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 2011年最後の書き込みです。偏屈者ですから、年の区切りにさして感慨もないのですが・・。

 写真は、1週間ほど前に散歩していて出くわした風景です。この写真を、これから陽が昇ってくると見る人と、陽がドンドン隠れていくと見る人がいるでしょう。同じ人でも、いまと数日後、数週間後では印象が違うかもしれません。でもそれは仕方のないこと、人の気持ちは常に変わっていきますから・・。

 時計の針が進み、カレンダーがめくられて日々は過ぎていきます。12月31日午後12時になればカレンダーごと不要になり、新しいものに代えられます。すると、「さぁ!」という気持ちになるのでしょう。でも実際は、自分は自分だし、世間は世間だし、何も変わりやしない。それでも、人は変りたいと望み、この時ばかりは変れると思い、くる年もくる年も、懲りもせずに同じことを繰り返します。

 掃除もせずに、なに気なくYou Tubeを見ていました。なでしこJapanの映像ですが、優勝を決めたPKの直後、一目散に叫びながら仲間の下に駆けよる選手のなかに、アメリカ選手とハグして回る選手がいました。宮間さんです。あの歓喜、あの興奮の中で、自らの喜びよりも先に相手を気遣っていました。

 嬉しいときに喜びを爆発させることはとてもいいことで、なんの遠慮がいるものかと思います。でもあの状況で、冷静に相手を慮る(配慮する)人がいる。これは、優勝したことの誇りと変らないほど、誇らしいことではないでしょうか。チームはひとりでじゃないですし、ゲームはひとチームではできませんし、世界一ですから、とても多くの人たちを必要とするのですから。

 人はひとりではなく、人は同じではない。簡単なようで難しいことです。震災からの復興にしても、原発の問題にしても、とても身近な電車の席取りにしても、行列に並ぶことも同じことではないでしょうか。

 やりたいことをやる、嫌いなことはしない。理解できること、信じていることしか認めない。 これで生きていけるのなら、それはそれでいいのでしょう。でも世の中は、白と黒だけじゃなく灰色もあれば無色透明もあるかもしれません。じゃ何を信じればいいのとなりますが、やっぱり信じるのは自分しかないのです。

 成功しても、失敗しても、咳をしても(オナラをしても)自分なのです。なにか自戒っぽくなってしまいました。説教たれるには10年早いぞ!イヤ20年?むさ苦しい、熱っぽい、ヘンなオヤジになりたい。年末に誓ってどうする?
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不信の根

2011年12月27日
激動というか、激変というか、大変な1年が終わろうとしています。災害の大きさの比較なんてイヤですが、一晩で2万人もの人が亡くなったのですから、未曾有の大惨事でした。さらに続く災難は、何十年かかるか分からない放射線との戦い、本当にトンデモナイ1年でした。

我々は1年というククリで物事を考えがちですが、そんなものは我々の勝手な都合で、災害にはクリスマスや年末休戦なんてないと心しなければなりません。余震は随分と少なくなりましたが、いまでもグラグラとくると「あの日」の揺れを思い出します。その都度に「あの日」を思い出すのですが、なにやら「あの日」を遠い過去のように、とっくに「あの日」は過ぎ去ったと、そんな雰囲気が漂っているのが気になります。

でも確実に「あの日」から芽生えたものがあります。不信です。沖縄の人達や本土の人達が、鳩山由紀夫の”県外”発言から、民主党政府に対して拭えない不信を持ちました。同じように、震災復興に於ける行政の不作為や作為的な怠慢、福島原発に於ける虚偽の報告や責任逃れ、こんなものばかり見せつけられ不信は膨れ上がっています。官(公)の一挙手一投足に対して、マユに唾する、ナナメに構えてしまう、そんな姿勢が普通になろうとしています。

今年は世界で、北アフリカから中近東まで、権威や権力が崩れさった年です。確か、チュニジアの若者が、仕事上の差別と将来に絶望して自死したのがキッカケだったように憶えています。環境も動機も違っているけど、この国でも多くの人が差別と将来に絶望しています。

絶望が芽であれば不信は根です。一度や二度の間違いではなく、欺瞞が構造的なものと分かれば、不信が確固たる根となり、その根から絶望が芽を出してくる。生活環境や情報の質が大きく転換し、不信となって根づいたこの年が、この国の”春”のスタートになるのかもしれません。

人を敬う人

 この季節らしく寒い土曜日で、今日はクリスマス・イブです。You Tube 見ていましたら、「日本伝統のクリスマス」なんて言葉を見つけまして、呆けたことをと思ってしまいました。この国でクリスマスと言われだしてたかだか20~30年、何が伝統だか。

 この国の宗教的欺瞞について、いまさら言上げすることはありません。別にクリスマスを祝っても、初詣に行っても、お墓参りに行ってもいいんじゃないという程度です。そんな行為のほとんどは、経済的なプロパガンダが元となっているものですから。宗教そのものが商業活動の一環として広がったもの、賛成も反対もない、身も蓋もないですが、どうでもいいのです。

 ただ引っかかってしまうのは、キリスト教の一神教とアジアの多神教の違いです。この国は成り立ちからして南方系人種と北方系人種の交じり合いで、稲(米)にしても、文字にしても、宗教にしても、後から外から入ってきたものを混ぜ合わせています。日本人は、外から入ってきたもののエッセンスを、それまでのものと掛け合わせることに長けた人種です。そして、日本にはずっと八百万(やおよろず)の神がいたわけで、それを一人にすることは、(私は)無理だと思います。

 もうひとつ宗教的なことを。
北朝鮮の将軍様が亡くなって、泣き叫ぶ国民の姿が流されて、北のこれからが論じられています。その中で「儒教」の存在を耳にしましたが、「儒教」の教えが北に残っているとは思えません。北ばかりでなく、南も、中(中華)にもです。

 「儒教」は、「論語」「礼記(らいき)」「春秋」「左伝」といった孔子の時代の教えが基となっており、とても難解で曖昧モコとしています。とても分かりづらいもののため、一般的には主君に対する「忠」、親に対する「孝」ばかりとなっています。なので、「忠」と「孝」が「儒教」だと多くの人は認識しているでしょう。以前、高度成長の頃、日本は「儒教」を早く見限ったから経済的に成長できたと思っていました。日本・中国・韓国・北朝鮮の国々は、この見限りが早いほど、早く経済発展できると思っていました。でも、この考え方は間違いでした。

 理由はとても簡単で、日本に「忠」や「孝」の考えが無くなったのか、韓国や中国に「忠」や「孝」の考え方が残っているか、どちらも正解で、どちらも誤解なのです。「儒教」の「忠」や「孝」は頑として存在するものではなく、発現されて存在が意識されるもので、その発現頻度が、経済=金儲けに蹴散らされてとても少なくなってきているのです。だから、「儒教」は無くなったのでも、残っていないのでもなく、もともとが「儒教」を基底とした社会は、幻想で理想でしかなかったのです。

 現代は宗教よりも、いかに商売に繋がるかが一番となってる”先商”の時代です。しかし、”先商”の思想が放射線禍を起こし、人と土地を疲弊させています。次に来るのは、予想したくない「棄民」であり「棄地」です。こんな現状を覆すには、宗教なんてどうでもよくて、経済なんてどうでもよくて、まずは人を見ること、「人を敬う」ことです。

 今年、目頭が熱くなったのは、心が温かくなったのは「人を敬う」人の姿でした。人は人を敬うこと、人から敬われることをもっとも望んでいるのではないでしょうか?
(年も押し迫って、無信仰で偏屈な根性を露わにしてしまいました。ご容赦を。)

間隙を埋める

2011年12月22日
寒いですね。クリスマス・年末の連休は、またまたこの冬一番になりそうとのことです。そんな今日は冬至です。冬いたり(至)てですが、あと2ヶ月も寒さが続くのかと憂鬱です。

今年は、行方不明者をいれれば2万人もの被害者を出した大震災があり、取り返しのきかない、収束もおぼつかない原発事故があり、大きな台風にも襲われた大変な一年でした。こうした天災や人災を経て、情報の重要さやその操作といったことが、市民レベルにまで実感される一年でもありました。

情報を隠蔽する、捏造するといったことは、今までも行われていましたが、放射線禍の理解が重要であり困難であることが、政府やマスコミの情報操作を表面化させたのです。脱原発デモ、反韓流デモ、民主党の街頭演説に対する「帰れ!」コール、やっとなのか、とうとうなのか市民レベルの声が各所で上がってきました。放射線禍を引き起こした原子力村、政治家でいたいだけのバカ政治家と省益しか見ない役人、金儲けに執心し権力に寄り添うマスコミ、これらの姿が鮮明になったのがこの一年です。

新橋駅前広場で起きた民主党街頭演説に対する反発は、物言わぬこの国の大衆意識が、変化してきている現われではないでしょうか?自動車重量税の一部免除法案を出したと、とても些細な実績を語る民主党に対して、「帰れ!」と叫ぶのは過激な反応ではありません。大袈裟に捉えれば、大衆がやっと「No!」と口に出し始めたのかも知れません。

大阪の「維新の会」の躍進には目を見張るものがあります。権力志向の強さが気にかかりますが、時おり出てくる主張には変革の兆しが見えています。震災復興に注力しない政府、原発の方向性を論じない政府、こんな状況に国民の多くは嫌気がさしていて、変革する流れを求めています。それが、「維新の会」と繋がっているのでしょう。

税金を納める国民と、国民に代わって国を運営する政府と役人、この両者の間にあまりに大きな隔たりがあります。誰がこの間隙を埋めるのか分かりませんが、もうそんなに時間も金もない、ことは分かっています。

液体レンズ

2011年12月20日
金正日が亡くなったそうです。北朝鮮の人達の泣く姿が流されていますが、勿論、微笑んだりVサインなんてできっこないですから、そうした点では無意味な映像です。あの独裁者が、生きていても、死んでいても、実態不明な国家体制は変らないような気がします。また、現状ではあの国に積極的に関わる周辺諸国はなく、周りの情勢を見ながら自壊するまで瀬戸際を歩き続ける、そんな気がします。

今日は全然違ったこと、「自分で度を合わせられる」画期的なメガネの話しです。2枚のガラスの中に液体を入れて、その液体の量で度を変えるもので、世界初の液体レンズメガネです。近視や遠視だけの場合は、これ1本、壊れない限り”一生モノ”となります。

私なぞもメガネ愛用者で、かれこれ30年以上掛けつづけ5~6本は買ったでしょうか。でもこのメガネの開発は、メガネ屋がどこにでもある先進国ではなく、途上国でメガネを普及させることが目的となっています。自分で度を合わせられる特長は、モノとしてのメガネだけでなく、眼科医がいなくともOKということなんです。アドレンズP.O.V.という会社です。
http://adlensjapan.co.jp/

フィルムカメラがデジタルカメラに変ったり、固定電話が携帯電話に変ったり、世の中ではモノが突然大きく形態を変えたり、モノの価値が大きくが変ったりします。ホントは何でも徐々に変っていくのですが、振り返って5年10年で入れ替わっていれば、それはそれで大変な変革ではないでしょうか。

今まではメガネを買うには専門医が必要で、高度な技術の元で作られた精密な製品が必要でした。でも液体レンズメガネであれば、高度な技術の賜物でしょうが、どこでも誰でもその恩恵を享受できます。5年10年で、世界中のどこでも安価に”一生モノ”のメガネが入手できることとなります。これが正しい技術の進歩なのでは、なんて思いました。(世の中、正しいのかどうか分からない技術がいっぱいありますから・・。)
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Author:等閑堂
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