忘れないこと

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 20度前後の気温、これが秋の標準でしょうが、いい気候ですね。

 またまたというか、世田谷で放射線量が高い場所が見つかりました。普通のスーパーマーケットの周囲です。東北以南、関東以北で、居住地域の狭い範囲で放射線を測定する人々、測定される地域が増えてきまして、結果、多くの地域で高い放射線量が発覚しています。日常の生活に、放射性物質の測定というトンデモなものが入り込んできたのです。

 ただ、犯人が原発由来とハッキリしているであれば、「やっぱり」となりますが、前回の世田谷の弦巻は原発とは関係なしで、この関係なしはとても怖いことです。なぜ怖いのかは簡単で、線量の高い地域に何も知らずに普通に暮らしていたのですから。生活環境の中の、道路わきの吹き溜まりや下水配管の近くは粉塵の集まりやすい場所で、放射性物質が集まっても不思議じゃなく、いつだってホットスポットになってしまいます。でも、こうした場所での高線量は予測できますが、原発由来じゃない高線量は予測外の別の恐怖です。勝手な憶測、妄想ですが、今後こうした原因不明な高線量地域が多く発覚するのでは思っています。

 このニュースを見ながら思い出したのが、超高齢者の所在不明騒動で、百歳を越えるような人たちの所在不明が、全国でボロボロ出てきたことです。最初の一人目や二人目、百歳をゆうに越える例などは報道され、最初の一人目は、年金詐取事件として起訴されました。しかし、その後の進展は全国的に広がることはなく、いつの間にかフェードアウトしてしまいましたが、この事件の調査や摘発はすべて終了したのでしょうか?ハッキリと書きたくないのですが、超高齢者所在不明は手に負えない、追いきれないものとなり、この国ではよくある普通のこととなってしまったのです。

 再度、世田谷で発覚した高線量の放射性物質ですが、いまの推測では道路の中、地中に放出源があると見られています。地中ということは、今回の原発由来ではありません。ということは?こうした疑問が、こうした正体不明なホットスポットが、各地で次々と発覚していく可能性があります。すると、高線量放射性物質も、超高齢者の所在不明と同じく手に負えない、追いきれないものとなるのでしょうか?

 「喉もとすぎれば」という言葉が浮かんできます。「熱しやすく冷めやすい」という言葉も。忘れたり見逃したりしていいのかと思いますが、それを繰り返してきたのが、この国の作法でもあったわけです。「反原発」「反東電」運動がかなり先鋭的になっていますが、先鋭になればなるほど心配が増してきます。先鋭なものほど逆に形骸化しやすい、早く過ぎ去ってしまう、そんな気がします。

 ただの先走った妄想かもしれません。しかし、手に負えない、追いきれないものでも、必要なことは心に刻むことで、忘れないことで、言い続けることじゃないでしょうか?
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コジツケ

2011年10月28日
ひょっと壁にぶら下がっているカレンダーを見たら、今日28日は「速記記念日」だそうです。記念日を作ればいいと思っている人が多いようで、○○記念日とか○○の日がいっぱいあります。商売の一環とすれば、日本各地に数多ある「ゆるキャラ」と同じで、たんなる安直な販促ですね。ついでにカレンダーを見て気づきました。なんと一昨日26日は「原子力の日」だったのです。原子力発電のコストが1.2円と言いたがる原発寄生虫は、ツッコミどころ満載の発電コストより、「原子力の日」をおとなしくアピールすればよかったのに思いますが、できるわけないか。

ほとんどの○○記念日や○○の日は、みっともないほどの数字のコジツケです。でも少し周りを見渡せば、多くのものが同じようなコジツケで成り立っていると気づきます。経済オンチですが、株価しかり、為替しかり、格付けしかりでしょう?政治だって大騒ぎのTPPで分かるように、内容も知らせずに是だ!非だ!とやっていますが、見通しなく決め付けるってコジツケそのものでしょう?行政がやってきたこと、年金にしても、ダムや道路の建設にしても、公務員改革にしても、すべてコジツケでしょう?

イヤな言葉が浮かんできました。韓国のことわざ「嘘もつき続ければ本当になる」です。嘘も事実も、大きな声で執拗に言い続ければ、竹島のようにコジツケられるということです。一般的な日本人らしい日本人は、この大きな声を出すことや執拗に食い下がることを、「大人げない」とか「みっともない」と嫌います。だから、古典的な<原>日本人はこの手法を使いません。でも実際の、世の中の多くの事柄は、マスコミが恣意的に頻繁に執拗に報道することで、企業のナリフリかまわない経済活動で、政治家の保身や怠慢でコジツケられている、そう思いませんか?

だから、今の世の中の成功する条件は、コジツケる能力と言い張る傲慢さを持っているか否かです。だから、政治家も経団連もマスコミも、そうして顔ぶれが揃っているのです。<原>日本人はいずこに?

ノータリン

2011年10月26日
内閣府の原子力委員会が、原子力発電の1KW当たりのコストを1.2円と試算しました。しかし、この試算の元となる資料も分からなければ、試算を出す意味も分かりません。以前から原子力が、火力や水力より安上がりな電力としてコストを出していましたが、今回の放射線禍によって、そんなコスト試算が何の意味もないことが明らかになったのに。

除染にかかる費用、住めなくなった土地の買い上げ、避難にかかった費用、新しい住居にかかる費用、農産物や海産物の賠償、風評による観光業の賠償、いくらかかるのか推測すら難しい。さらに、精神的な苦痛に対する賠償など、原子力発電には途方もない金額がかかります。こうした諸々の目の前の費用を考慮せず1.2円の試算を出すなんて、ただのノータリンです。

同じノータリンが他にもいます。TPP問題で賛成の反対のと騒いでいる連中です。TPPの内容が全然明らかになっていないのに、アーダコーダ、いいの悪いの、抜けられるの抜けられないの、内容の分からない議題で騒いでどうするのでしょう?騒いだことで議論を尽くしたとでも言うのでしょうか?

いまこの国の優先事項は、1に東北の震災からの復興で、2に放射線禍の収束です。そりゃ農産物問題も重要ですが、この1・2ヶ月議論して方向性が決まるわけじゃなく、食料自給率にしても何十年も前からの課題で、すぐに対策が出るわけありません。福島第一原発の原子炉の安定だって数年かかり、放射線禍の収束はさらに年月がかかります。しかし、いくら時間がかかっても復興や収束が最優先であって、東電やアメリカ(対米政策)はその後の問題です。

このバカ騒ぎ、原子力委員会や政治家がノータリンなのは一目瞭然ですが、同じくノータリンなのがマスコミです。なぜ、こんな意味のないことを報道するのでしょうか?原発のコストが1.2円なんて空言を聞きたい国民がいるのでしょうか?内容を報道せずにTPP賛否騒ぎを垂れ流してどうするのでしょうか?

原子力委員会(行政)も、政治家も、マスコミもみんなノータリン。この国はどうなるのでしょう?

ケタ違いの話し

2011年10月24日
リビアのカダフィ政権が倒れました。この情報は、まずカダフィ拘束から始まり、すぐにカダフィ死亡と変わりました。40数年間もの独裁体制を終わらせるには、独裁者の死をもってでしかなかったのでしょうか。生涯を通して銃火器など見ることのない我々が、戦車や戦闘機で国民を襲う独裁者の国で起きた、私怨での処刑、報復としての処刑ですが、我々にこの是非を問うことはできないでしょう。カダフィに対する憎しみや恐怖が、我々の想像できるものとはケタが違うのでしょう。でもこれで報復の連鎖は抑えられるのでしょうか?(こうした首魁の死で以って幕を引く手法は、この先も続くのだろうか?)

ガラッと変わって、国内の亡者、盲者のケタ違いな話しです。1つは東電で、1つは国家公務員(人事院)です。東電が亡者で、公務員が盲者でしょうか。

東電は今日、4千億円の資産売却を発表しました。これは今後の賠償などに充てるためのものですが、ケタが違っています。巷間言われている数字は、東電の有形固定資産は9兆円、不動産が1兆2千億円だそうで、4千億円は株と一部の不動産を売却して捻出するとのことです。今後膨れ上がる賠償金は電気代に上乗せと考えているのでしょうが、事故の重大さと責任の深さが、まったく分かっていません。まさに亡者ですね。

人事院が国家公務員給与の0.23%引き下げを勧告しましたが、政府は6月に出した7.8%引き下げる特例法案を成立させるとのことです。0.23%の人事院勧告って、ケタを間違えたのかと思われますが、まぁ役人なんてこんなものでしょう。対する政府の7.8%だって、ケタ違いとは言いませんが、半分以下の数字じゃないでしょうか?

亡者と盲者には、「隗より始めよ」は求めるべくもない?ふざけんじゃないよ!ですね。

溝を埋める

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 ちょっと前に本棚から坂口安吾の本を2冊発掘したことを書きましたが、この時もう1冊雑誌を発掘していました。文芸春秋特別号「大いなる昭和」、1989年3月に出されたもので、「いつか昭和を語るための永久保存版」とのサブタイトルがついています。買った記憶は辛うじてありますが、読んだ記憶はありません。23年も眠っていました。

 裕仁天皇の逝去で幕を閉じた昭和を天皇を中心にまとめたもので、A5判760頁にたっぷりの写真とたっぷりの記事が載っています。裕仁天皇の生い立ちを時代の変遷とともに、いろんな作家や学者・文化人が寄稿していて、裕仁天皇個人の知られざるエピソードが多く載っています。でも、やはり終戦を決断した御前会議や、「忍ヒ難キヲ忍ヒ」の8月15日の詔勅が軸となっています。

 この大部の特別号で、とても興味深い文章を見つけました。それは、(当時の)東京大学の比較文化の平川祐弘教授が寄稿した「御神木が倒れた日」です。御神木=裕仁天皇で、日本独自の天皇制を理解するために、ラフカディオ・ハーンとポール・クローデルを、日本独自の宗教システム=神道を理解した2人の欧米人を紹介しています。クローデルは、大正期に日本に赴任していたフランス大使です。彼の日本勤務は大正天皇の大喪の礼で終えるのですが、7年ほどの赴任期間で、天皇制の特殊性を理解し、この日本独自のシステムに畏敬の念を表しています。

 「私が、決して滅ぼされることのないように希(ねが)う1つの民族がある。それは日本民族だ。あれほど興味ある太古からの文明をもっている民族を私は他に知らない。あの最近の驚くべき発展も私には少しも不思議ではない。彼らは貧乏だが、しかし彼らは高貴だ。」これは、平川教授が「御神木が倒れた日」の最後で上げている、クローデルの第二次大戦中のコメントです。クローデルは、一神教のキリスト教と合理的な思考を身につけたフランス人ですが、極東の多神教で類のない神を擁する奇妙な国を理解しています。

 ここからは勝手な妄想で、勝手なコジツケですが、今回の大震災と放射線禍に対する政府や東電やマスコミの対応は、欧米流の経済原理に沿っていると思っています。経済と言う1つの神(原理)を優先する考え方です。ところが、現実の被災者や避難者は経済原理など関係なく、家も、土地も、仕事も、故郷も、ペットも、地域社会も、すべて金銭に換算できないものと考えています。政府や東電の加害者サイドは、牛も豚も鳥も資本財としか見ていないので処理(殺処理)に躊躇はありませんが、被害者からすれば、牛や豚や鳥は簡単に処理できるものではありません。(実際に、乳も肉も売れない牛を飼い続ける畜産農家がいます。)

 この両者の乖離に、今回の大震災と放射線禍の復興や収束が見えてこない、進んでいかない原因があると思うのです。実際に今の世界は欧米流の経済原理が幅をきかせていますが、クローデルが高貴と見たこの国の人々は経済原理で動いているわけじゃないです。数から見ればほんの僅かな経済原理者と、多くの普通の生活を望んでいる被災者がいて、前者が加害者で後者が被害者なのですから、とるべき対策は賠償ではないのです。(賠償といっても原資は税金ですけど)

 この乖離を埋めなくては先に進めません。どうやったら埋まるのかですが、一番の対策は距離を縮める、被災者と行政を地理的に近づけることだと思います。行政が東京にいる必要はなく、関係する役所と役人がすべて現地にいればいいわけで、そうすれば、何が必要かよく理解できるでしょうし、スピードも上がるでしょう?

 東北と東京の溝を埋める、気持ちを合わせなければ復興は進まないでしょう。こんなドン詰まった状況で、この雑誌「大いなる昭和」を読んでよかったと思いました。23年ものブランクを経て、このタイミングで読んだことに何か意味があるのかも知れません。
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Author:等閑堂
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