曇天のもと

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 先日、上野の近くに用事があり上野駅で降りました。時間があったので、不忍池を回るコースをノンビリ歩いていて、写真の蓮を撮影しました。この時に写した他のカットとともに、自分のfacebookに載せましたら、年配のfacebook友達から「いいね」が入りました。そして「お盆みたい」とも書き込まれていました。ホント、見事にお盆カラーですね。

 この時は不忍池を1/3周ほど回ったのですが、三脚を担いだ人、池の手すりにへばりついた人、蓮の花狙いのカメラマンがうじゃうじゃと居ました。するとやはりどこにでもいるのが、「立ち入り禁止」の手すりを乗り越えて撮っている”バカメラマン”です。日本中いたる所に撮影に適した名所があり、いたる所に「立ち入り禁止」がありますが、同じくいたる所に”バカメラマン”が居ます。ハッキリ書きますと、「立ち入り禁止」に入り込まなければ撮れない写真なんてないです。「立ち入り禁止」に入り込めば撮れる”いい写真”なんてないのです。こんな輩を見るたびに、「お前ら、絶対いい写真撮れね~ぞ!」と呟くのです。

 写真に限らず、絵画に限らず、窓からボォ~と外を見ていても、我々は風景を見ています。そして、見ている風景のほぼ全てが「借景」です。誰かの家であり、誰かの庭であり、誰かのビル、誰かの山です。地面には杭を打って分けることができますが、空間には分け隔てるものはありません。だから禁止されていても、マナーに反していても何をやってもいいのではなく、互いに気持ちよく使わなければならない。そうでしょう?

 曇天のもとを、上野から根津へ、根津から日暮里へと歩きました。ここいらは、心地よい昭和の日本の町が残っていいます。根津から日暮里の中途には谷中墓地があり、今回初めて歩いてみました。見事な墓地です。普通のこじんまりとしたものから、遺跡のような石碑を飾った大きなものまで、見事に配置されていました。さらに、青葉の茂った大きな樹が、これまた見事に配置されています。墓地とこういったもの、お手本みたいです。

 この谷中墓地には著名人の墓所が多くあるようで、著名人の墓参りにくる一般人が多いそうです。(だからなのか、○○家との案内書きが多くあります。)でもこの墓参って何っ?と理解できないものです。だって、墓参は先祖を敬うものです。どんなに著名でどんなに立派な人でもご先祖じゃないでしょう。どんな顔して、何を想って拝むのでしょう?いい迷惑、余計なお世話とは言いすぎでしょうか?

 谷中墓地の著名人の墓所は、もちろんその家の、その寺の地所ですが、誰でも自由に入っていけます。「立ち入り禁止」とは書かれないけど、でもホントは見えないバリアがあるのです。著名人の墓所を墓参することが悪いと決めつけているのではありませんよ。「○○○○の墓にでも行ってみるか?」じゃ、「立ち入り禁止」に踏み込むのと同じことだと言っているのです。

 今にもパラパラと降りそうな曇天のもと、立派な墓地を歩きながら、あ~だこ~だと呟いていました。
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ハードボイルド

2011年7月28日
降ったり止んだり、ハッキリせずにやたらと蒸している鬱陶しい一日でした。私なんか、朝の寒さに騙されてジャケットを着ていったら、ジャケットが邪魔で邪魔で、おけげで傘を置き忘れてしまいました。

もうすっかり過去の遺物となった感のあるタバコ、昼食の後、タバコを吸っていて昔のことを思い出しました。昔、カメラ屋さんにいた頃は、ず~っと赤いマルボロを吸っていました。ある日、私が居た支店のカメラ屋に新人が配属されてきました。思ったことを何でも口にする、純粋な、配慮しない若者で、本店で嫌われて支店へ流されたのが真相だったようですが、本人はあっけらかんとしていました。

赤いパッケージのマルボロには、当時はまだボックスじゃないソフトな包装がありまして、私はボックスが嫌いで、ソフトしか買いませんでした。で、その新人も同じように赤いマルボロのソフトを吸っていまして、ある日何気なく「なんでソフトの方を吸ってるの?」と聞きました。すると、「ソフトじゃなきゃ潰れないでしょう?潰れないとハードボイルドじゃないでしょう?」が彼の答えでした。私はその答えだけで、彼の一面を理解できたと思いました。「タバコの箱は潰れないとハードボイルドじゃない。」これ分かりますか?

レイモンド・チャンドラーが生み出した最高の探偵、フィリップ・マーローは、いつもタバコを口に挟み煙そうな顔をしています。いつもポケットから、しわくちゃになったタバコを取り出しそれを伸ばして火を点ける、これが私のハードボイルドのイメージです。彼のイメージはフィリップ・マーローじゃないかもしれませんが、しわくちゃになるのがタバコで、しわくちゃのタバコ=ハードボイルドです。そして、そんなハードボイルドを好む嗜好性が同じなのです。まったくの誤解だったかもしれないけど「分かった!」という感覚、思い込みむことはとても大切なものと思えました。

蒸し暑い昼下がり、そんな昔のことを思い出しながらボックスからタバコを取り出し一服しました。私のハードボイルドはどこへいったのでしょう?

働く意義

2011年7月24日
23日の「他人の不幸」のコメントに返事を書いていて、昔聞いた話しを思い出しました。いつ頃、誰が言ったことかは忘れましたが、それは「納税するために働く」という台詞です。コメントに書いた「会社は雇用を守るためにある」の、さらに上を行く恐れ入るものです。

20年以上前は、今と同じようにいろんなことがあってもまだ行政は動いていました。だから「納税するために働く」は、理解不能とまでは行かず、まだ理解の範疇でしたが。今現在の政治(行政)は、被災地の何十万人もの人たちをおいてけぼりで、何もしていません。そんな国に、「納税するために働く」気持ちにはなかなかなれません。

税金を基にした国の援助が、被災地に的確に回っているのなら、その援助を厚くするためなら増税はありかと思います。しかし、今言われている増税は、被災地や復興に関わるものとは思えません。理由は簡単で、今回の大震災で行政が先立って援助を行った例はほとんどなく、すべて必要に迫られてやっているだけですから。それなのに与謝野のジイサンは、消費税や所得税の増税ばかりではなく、またぞろタバコ、さらにケータイの使用料まで上げようとしています。ちょっとは世の中を見回してみろ!ですね。

一部の大企業の中には、膨大な内部留保を溜め込んでいる会社があります。そんな会社でも、やれリストラだ!工場移転だ!と言っています。内部留保を積み増すことにどれだけの意味があるのか、会社組織と縁のない私には理解できません。でも、会社の繁栄が勤めている人に及ばないのであれば、何のための繁栄かと思うのが普通の感覚で、一般社員の給料はここ20年ばかり変わっていない、これが現実なのです。

会社のためじゃなく、まして国のためじゃなく、自分の生活を維持するためだけに働く。生きている時間の半分を費やす仕事が、こんな意味しかないのは悲しいことです。いつからこんな国になったのでしょう?

睨むオジサン

2011年7月24日
今日からテレビはデジタル放送開始で、アナログ放送がストップしました。被災地3県(岩手・宮城・福島)は除外ですが、そんなにうまく行くのかと思っていましたがどうなんでしょう?我が家は、福島だと約200キロ、東京だと約60キロ離れていますので、どうやっても映りようはありません。まぁ、3年も前から分かっていたことですが、何のための地上波停止とデジタル移行なのか未だに分かりません。

うちの近所に焼肉屋さんがあります。タバコを買いに行く途中にあるのでよく前を通りますが、客がいる、車が止まっていたことがありません。で、通るたびに、店の入り口に、外から見えるテーブルに、駐車場の端っこにオジサンがいます。必ず目に付くどこかにいます。で、ズ~ッと前を通る人を睨み続けています。おっかないほど、目を合わせられないほど睨んでいます。この焼肉屋さん、10年20年以上前からあるように思いますが、ということは10年20年も前から睨んでいるのでしょうか?待ちくたびれて睨みつけたくなる気持ちは察せられますが、ホントに睨んでもどうにもならんでしょう。長年の積み重ねが睨ませるのでしょうが、すでに怖い門番の域に達していて、飲食店なのに人除けしているようです。

私の知人で変わった店を見つけるのが得意な人がいまして、ある日「面白いトンカツ屋があるけど」と連れて行かれました。長いカウンターだけのちょっと小汚い店で、ひょっとして隠れた名店かと期待しましたが、トンカツは何か生ぬるくて中途半端な味でした。で、変わっているのはトンカツを揚げている主人で、客に背を向けてトンカツを揚げているのですが、時々チラッと、チラチラッと客を見て、「うふふ」とばかりに微笑むのです。確かに変わった店じゃなく変わった主人でしたが、この気色悪さには参りました。二度と行きません。

旨くて安けりゃ、睨まれても微笑まれても構わないのですが、外見や挙動ではその味が分かりません。そして何がもっともイヤかと言えば、不味いものを食べた後の後悔です。このハズレはかなりショックで尾を引きます。ハズレを食さないように気をつけましょう。

他人の不幸

 2日ほど前の寒さを感じることはなく、先週ほどの暑さを感じることもない。地震で少し揺れたけど、とてもいい気候となっています。こういう日には、ノンビリとブラブラと散歩するのがいいのですが、今日は気分が乗らず腰が重いのです。

 今日、ノルウェーで爆破テロと銃撃事件が起きました。銃撃事件では90人からの人が亡くなっています。死亡者の多くが10代、20代の若者ということで、政治絡みのテロでしょうが不幸な事件です。銃撃で亡くなった若者たちは、自分の人生が銃撃で閉じられるとは思いもしなかったでしょう。

 1つの災害で2万5千人が亡くなった大震災は不幸の極みですが、不幸のタネはいつだってどこにだって転がっています。7~8年前まで私は、「他人の不幸は我が身の幸せ」という言葉を肯定していました。どこかのドジで間抜けな奴がドツボに嵌れば、それだけ幸運が自分に降りかかると思っていました。そう、世の中は幸と不幸がないまぜになって、誰かの幸は誰かの不幸につながっていると。

 でも、それは違うと思えるようになったのは、本当の不幸を経験したからです。人の一番の不幸は人との死別です。死が人を分かつ、関係が近ければ近いほど大きな不幸となります。8年ほど前に、1年の間に2人の身内、ひとりの親しい人、19年生活を共にした愛猫を亡くしました。これだけ続けば、「他人の不幸は我が身の幸せ」なんて言ってられません。

 そんな時思ったのが、誰かが落ち込まなければ、誰かが浮かび上がれないなんてない、ということです。でも合理的に物事を捉える人は、プラスになるにはマイナスがなければと考えるのでしょう。そして、そんな人は自分にマイナスが降りかかるとは考えません。でも現実として、プラスばかりの人生なんてあり得ませんので、誰もが明日は我が身なのです。さらに、今現在、何十万人もが大震災でマイナスな状況にありますが、どこに何十万人のプラスな人がいるのでしょう?辻褄も合いませんね。

 現実社会では財布を落とした人がいて、それを拾った人がいる。試験に落ちた人がいて、受かった人がいる。これだけ見れば確かに、「他人の不幸は我が身の幸せ」と思ってしまいます。それが民主主義と言われれば「そうですか。」と言わざる得ませんが、本当にそうなんでしょうか?いつの間にそんな社会になったのでしょう?人の幸、不幸、運、不運は、誰からも教わることのない、自分で考えるしかない、自分の価値観から生まれてくるものだと思います。それじゃ、その価値観はどうやって作られるのかとなりますが、答えは、社会であり、環境であり、人なのですが、これじゃ答えになりません。

 こんな心の深奥を扱うのが本来は宗教なのでしょうが、幸か不幸か、この国には宗教がありません。この国にあるのは宗教風な商売です。ここでやっと糸口が見えてきました。そう商売です。商売を抜けば答えが出てくるのです。「他人より多く売る」「他人より多く稼ぐ」から、「人並みに売る」「人並みに稼ぐ」への転換じゃないでしょうか?「他人より」から「人並み」と変われば、他人の不幸を望むことはなくなりますから。

 求めるべきものは、過ぎたる商売や過ぎたる利益ではなく、安寧なる生活じゃないでしょうか?
プロフィール

等閑堂

Author:等閑堂
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