妄想写真

Whats Color

 ホント、久しぶりに写真を撮りました。撮ったといっても、庭の南天の葉っぱをパチリといたってグ~タラな撮影です。そしてフォトショで少しばかりコントラストを上げて、トリミングして完成です。なんで撮ったのかと言えば、葉っぱの色に惹かれたからです。自然の色はグレートです!

 ワタシ、ときおり自然の色に魅入ってしまうことがあります。先日も水が引かれ苗が植えられた田圃の端に、淡いグリーンの藻のようなものが集まり漂っていたのですが、その藻の色がキレイなグラデーションとなっていて、これまた魅入ってしまいました。葉っぱの色、藻の色、見事な色と見事なグラデーションです。

 以前、ディランの初期のジャケット写真を出して、写真は”読むもの”と書きました。あれは、被写体と背景、トーンやピント、タイミングなど、写真には”読む”要素があるとの思いで書きましたが、今回は写真で何を想像するのか?イヤ何か妄想することができるのかです。

 掲出したのは安直に撮った南天の葉っぱです。1本の木から枝が伸び葉っぱが繁っていますが、随分の色合いの違う葉っぱが並んでいます。よくみると枝から色合いが違っていて、葉っぱにいたってはまったく違う色になっています。こう解説すると、想像や妄想のネタが出てくるのじゃないでしょうか?そう、生まれは同じでも育ちが違うとか、オレにはオレの主張があるとか・・・ですね。(これが妄想ですね。)

 勝手に想像や妄想することは、ワタシは子供の頃からこうした妄想ばかりしていますが、楽しいことです。そして写真ですが、色合いに惹かれて撮ったのですが、この惹かれたときから既に妄想は始まっているのです。妄想を現そうと思って撮っていまして、見たヒトに妄想を抱いて貰えるかなと思いながら撮っています。

 最近は何やら”インスタ映え”という言葉が使われていますが、そこから発想される妄想の種類が問題です。「いいもの喰ってやがる」や「いい所に行ってやがる」、こうした類の妄想ではムナシイですよね。もっと妄想を楽しめる写真が観たいもので、妄想しながら写真を撮る。そう写真は妄想なのです。
スポンサーサイト

ココロに残る写真

FW BD

 えぇ~っと今回は、イマサラながらのボブ・ディランじゃなくて、音楽の話しでもなくて写真の話しです。掲出の写真、ディランの2枚目のアルバムのジャケットですが、このジャケット写真には、ワタシの深~い想いが詰まっているのです。これを最初に見たのは18か19の頃で、一発でノックアウトという感じでした。

 「この楽しそうな、暖かそうな写真は何だ?」と田舎の青年は衝撃を受けたのです。同じ頃に登場した「南沙織」を凌ぐ衝撃でして、このディランの彼女、スー・ロトロにマイってしまいました。早速レコードを買ったはずですが、記憶も定かじゃないのですが、これがまったくどこにも無く、それが40年後の衝動買いと繋がるのです。(40年後に新品があるのもスゴイことです。)

 しかしコレ、ジィ~と見ていると写真の威力というものに気づかされます。道路が凍てつく厳冬のニューヨーク、灰色の空の下、腕を絡ませて歩く若い二人、はにかんだ微笑(びしょう)と明るさに満ちた微笑(ほほえみ)がとても暖かい。この写真は”微笑”が伝わってくるのです。田舎の青年にもですね。

 音楽の話しはナシで写真です。以前に書いた憶えもありますが、ワタシ、写真は”読む”ものと思っています。だからこのジャケット写真にマイってしまうのです。いい写真とは、テーマ、背景、ピント、タイミング、色調、構図に撮影者の意図が現れているものだと思います。これらを撮影者は、フィルムの種類、絞り、シャッタースピード、シャッターチャンスで意図を表現します。

 そしてその表現が的確であれば、意図が見るヒトに伝わるのです。被写体はなんでも、風景でも、人物でも、花でも、動物でも同じです。要は撮影者が伝えたいとか、残したいという意図を持っているか、いないかなのです。写真はもともと、手元に置きたいとか、見せたいとか、残したいとか、贈りたいとか、そういった意図で撮られますから・・・。

 「写真の良し悪しが分からない」と正直に仰る方が以前いましたが、それは漠然と写真を撮ったり見たりするからじゃないでしょうか?(イヤ、漠然とした写真が多いからか?)誰にでも写真は撮れますが、心に残る写真は”ココロ”しなければ撮れないのです。何事も”ココロ”するのは難しいですね。

生老死

 今回はちょっと2つの話しを・・・。

 2年前、ワタシ中古の原付バイクを買いました。この経緯は2年前に書きましたが簡単に記しますと、30年以上の付き合いの自転車屋さんに久しぶりに寄ったら、ここの同年齢のオヤジ、ゲッソリ痩せて顔色はドス黒くなっていました。ガンと腰骨の骨折で見る影もない状態で、なにか励まさなきゃと中古バイクを買ったのです。

 それから中古バイクは快調で、また悲報は聞きたくないので足が遠のいていました。先日、自賠責保険料を払いに行きましたら、ご本人、ニコヤカに笑って坐っているのです。顔色はドス黒いの”ドス”が消えた程度でしたが、腰が完治していましてニコヤカなのです。そして「まぁ、お茶でも飲んでいってよ」と。

 ガンは治癒していませんが、2年前には聞けなかったガンの話しが次々と出てくるのです。最初の手術で開腹したあとの腸を収めきれず、腸の一部が体の外に出ていて、それを見たお店の若い衆が「ホルモン喰えなくなった!」と言ったとか・・・。もうまったく昔の明るさが戻っていたのです。原付バイクを買ったのは早まったのかと思いましたが、ワタシはもう2度と彼の笑顔は見れないと思っていましたので・・・とにかくよかった。

 もう一つの話は、これも半年ほど前に書いた話ですが、友人のヨメさんがリンパのガンに罹った件の続編です。ホントは書かないほうがいいのかもしれませんが・・・。この時はリンパのガンが完治した知り合いの話しを教えたら、40年来の友人から初めて「ありがとう」との言葉が出たのですが、今回はあまりよくない話しです。

 先日この友人から電話がありまして、彼から「(ガンが完治したワタシの知り合いから)そのヒトはガンのステージは何だったか聞いて欲しい」というものでした。ワタシ、反射的に「それを知ってどうするの?」と聞き返すところを推し留めたのですが、彼は「ウチ(嫁さん)のは3と4の間」と言うのです。

 同じガンが完治したヒトのステージを聞いて、嫁さんと比較するのでしょうか?ワタシ、「いつ会えるか、いつ聞けるか分からないよ」と誤魔化しましたが、ホントは「それを知ってどうする?」と問い詰めたかったのです。どういう意図の質問か分かりませんが、「それを知ってどうするの?」との思いが消えません。

 ガンを患ったヒトの身内は、ワタシもオヤジと兄貴の2人の身内が患いましたが、「治る!」と思い込むしかないのです。それなのに「(治ったヒトの)ステージは?」と聞かれても、ワタシには応える言葉がありません。だからこの質問には、完治したヒトにも聞きませんし、彼にも応えません。

 ガンを患うことはある意味では「老い」が大きな要因なのかもしれませんが、ヒトの「生」と「老」と「死」は比較も出来なければ、推察することも難しい問題だと思います。それらのことは、ヒトは祈ることしか出来ないものです。自転車屋のオヤジの明るさは、祈っている明るさだと思うのです。生と老と死は推察できないもの、自ら祈るものだと思うのです。だから応えない・・・どうなんでしょう?

いまさらアバター


2018年2月13日
トンでもない映画を観てしまいました。40~50年前のモノがワタシの主流なのですが、これは2009年のモノで、とても新しいのです。ジェームス・キャメロンの「アバター」、とても有名な映画です。

この映画が封切された頃、ワタシ、とある同好会に入っていまして(今も会員ですが・・)、この同好会が3D映像やステレオ画像の同好会でして、「アバター」は絶好の、恰好の、最適最高のモノでして、上映されて3ヶ月くらいはこの「アバター」の話題ばかりで、なぜこのヒット時に観なかったのか自分でも分かりません。

実を言いますと、ワタシ、「飛び出す映像」は好きじゃないのです。ワタシ、ステレオ映像を勉強しようと思ってこの同好会に入ったのです。ところがこの「アバター」で「飛び出す映像」に注目が集まり、少しですが3D映画がモテハヤサレましたが・・・すでにブームは過ぎ去ったようですね。私見ですが、3D、「飛び出す映像」は、長続きしない映像表現じゃないかと思っています。(定着しないモノと思っています。)

6年も7年も経ってやっと観た「アバター」ですが、これは映画としては最上級品ですね。ストーリーがまずイイ!映像がメチャクチャ美しい。迫力がハンパじゃなく、3D化するのも無理ないものです。だてに構想14年、製作4年じゃないです。162分という長めの作品ですが、ダラケタ感じがまったくありません。

映画という表現が、寝ている間に見る「夢」と同じレベルになっている。つまり映像にまったく違和感がなく、「夢」のように映像が流れてゆくのがスゴイのです。そしてストーリー、他の惑星まで侵略していく人類に、人類の一人が惑星の原住民とともに人類と戦う。「愛」や「自然」のために戦う、このストーリーがいいのです。

偶にはこういう”大作”もいいもので、いまさらな「アバター」に感激ッス。えぇ?もうアバター2ですって?

煽る経済

 先日来、藤原新也さんの「東京漂流」(1983年刊)という本を読み返しています。この本は藤原さんの13年に亘るアジア漂流後の、日本国内での生活から産まれたエッセイですが、この国の80年代の出来事が、筆者のアジアを見てきた目を通して、この国の独特な事象を詳らかに描いています。(昔読んだ本の再読ですが、ほとんど忘却の彼方でして、新刊のように読んでいます。)

 この中で、「大衆の浪費を刺激する10の戦略」というのがありました。これは V.パッカードという経済学者の引用ですが、ちょっと孫引きします。
○捨てさせる  ○無駄遣いさせる  ○贈り物にさせる  ○蓄えさせる  ○抱き合わせ商品にする  ○キッカケを与える  ○単能化させる  ○セカンドとして持たせる  ○予備を持たせる  ○旧式にさせる  ・・・というものです。

 どうです?何か懐かしさを感じてしまいませんか?この国の80年代の景況が浮かんできますね。売り手側の口上で未だに聞かれるのが「セール期間中」という言葉、まるっきり ○キッカケを与える じゃないですか?これ「浪費を刺激する戦略」ですから、もう何十年も我われは刺激、イヤ煽られっぱなしなわけです。

 まるで被害者のように書いていますが、ワタシ立派な加害者で、80年代はワタシもイケイケの販売員だったのです。好調な経済とは、生産と消費がうまく循環している状態をいうのでしょうから、消費を煽るという行為は立派な経済活動です。ただ引っかかるのは、好ましくない経済活動が跋扈していて、ワタシの中に煽っているとの感覚が産まれるのです。まぁ世の中にはブームに乗っかることに違和感がなく、イヤむしろ進んで乗っかることに喜びを感じるヒトが多くいます。ワタシのように煽られることを嫌悪する方が少数でしょうね。

 この冬は記録的な降雪や寒さですが、天気予報で「この冬一番」というフレーズが出てくると恐怖してしまいます。TV局は警戒を促すために使っている言葉でしょうが、聞かされるほうは恐怖でして、これ煽っているとも感じられます。ワタシTV見ませんが、TVというメディアには何かを装った煽りがいっぱい隠れているのではと思うのです。”何かを装った煽り”これ上記の「10の戦略」にあるように、実に巧妙で、実に狡猾です。

 ・・・と消費することばかり書きましたが、世の中消費ばかりで回っているわけありません。我われは消費者であるけど、同時に生産者や販売者であるわけです。”扱うブツ”が見えるものであれば分かりやすいのですが、保険のような”信用”もあるわけで、生産者や販売者も一括りにはできません。そんなわけで世の中、消費も生産や販売も玉石混淆なのです。

 混淆であれば、混淆でいいのです。(イヤ混淆しかあり得ない。)平準化された、偏らない混淆が望ましいと思いますが、世の中ってすぐに偏ってしまいます。安部チャンのように、針のような改憲論を棒のように囃し立てるヤカラもいます。こと経済面からすると、針なのか棒なのかは重要なことで、多くの針で世の中が見えにくくなることもあるのではないでしょうか?(ビットコインの件が多く報道されるのは、短期的にはマイナスな情報でも、長期的に見るとイイ宣伝なのかもしれません。)

 やっぱり経済の話しはワタシでは無理なようです。でもワタシ、基本的に”見えないブツ”を増やすのは良くないと思うのです。電気にしても、電波にしても、保険にしても、仮想通貨にしてもです。だって「うちの電波、うちの仮想通貨はいいですよ」と言われても困るし、同じく真偽不明なコンサルや口利き料なんてものは無いほうがいいと思うのです。 誰にでも分かりやすい価値、金額が想像できるブツだけで、経済が回ってゆくほうがいいのではと思うのです。煽られるのはイヤです。
プロフィール

等閑堂

Author:等閑堂
”ひつじのこ”にようこそ!
あなたの日々積み重なるものはなんでしょう?

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ