いまさらアバター


2018年2月13日
トンでもない映画を観てしまいました。40~50年前のモノがワタシの主流なのですが、これは2009年のモノで、とても新しいのです。ジェームス・キャメロンの「アバター」、とても有名な映画です。

この映画が封切された頃、ワタシ、とある同好会に入っていまして(今も会員ですが・・)、この同好会が3D映像やステレオ画像の同好会でして、「アバター」は絶好の、恰好の、最適最高のモノでして、上映されて3ヶ月くらいはこの「アバター」の話題ばかりで、なぜこのヒット時に観なかったのか自分でも分かりません。

実を言いますと、ワタシ、「飛び出す映像」は好きじゃないのです。ワタシ、ステレオ映像を勉強しようと思ってこの同好会に入ったのです。ところがこの「アバター」で「飛び出す映像」に注目が集まり、少しですが3D映画がモテハヤサレましたが・・・すでにブームは過ぎ去ったようですね。私見ですが、3D、「飛び出す映像」は、長続きしない映像表現じゃないかと思っています。(定着しないモノと思っています。)

6年も7年も経ってやっと観た「アバター」ですが、これは映画としては最上級品ですね。ストーリーがまずイイ!映像がメチャクチャ美しい。迫力がハンパじゃなく、3D化するのも無理ないものです。だてに構想14年、製作4年じゃないです。162分という長めの作品ですが、ダラケタ感じがまったくありません。

映画という表現が、寝ている間に見る「夢」と同じレベルになっている。つまり映像にまったく違和感がなく、「夢」のように映像が流れてゆくのがスゴイのです。そしてストーリー、他の惑星まで侵略していく人類に、人類の一人が惑星の原住民とともに人類と戦う。「愛」や「自然」のために戦う、このストーリーがいいのです。

偶にはこういう”大作”もいいもので、いまさらな「アバター」に感激ッス。えぇ?もうアバター2ですって?
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煽る経済

 先日来、藤原新也さんの「東京漂流」(1983年刊)という本を読み返しています。この本は藤原さんの13年に亘るアジア漂流後の、日本国内での生活から産まれたエッセイですが、この国の80年代の出来事が、筆者のアジアを見てきた目を通して、この国の独特な事象を詳らかに描いています。(昔読んだ本の再読ですが、ほとんど忘却の彼方でして、新刊のように読んでいます。)

 この中で、「大衆の浪費を刺激する10の戦略」というのがありました。これは V.パッカードという経済学者の引用ですが、ちょっと孫引きします。
○捨てさせる  ○無駄遣いさせる  ○贈り物にさせる  ○蓄えさせる  ○抱き合わせ商品にする  ○キッカケを与える  ○単能化させる  ○セカンドとして持たせる  ○予備を持たせる  ○旧式にさせる  ・・・というものです。

 どうです?何か懐かしさを感じてしまいませんか?この国の80年代の景況が浮かんできますね。売り手側の口上で未だに聞かれるのが「セール期間中」という言葉、まるっきり ○キッカケを与える じゃないですか?これ「浪費を刺激する戦略」ですから、もう何十年も我われは刺激、イヤ煽られっぱなしなわけです。

 まるで被害者のように書いていますが、ワタシ立派な加害者で、80年代はワタシもイケイケの販売員だったのです。好調な経済とは、生産と消費がうまく循環している状態をいうのでしょうから、消費を煽るという行為は立派な経済活動です。ただ引っかかるのは、好ましくない経済活動が跋扈していて、ワタシの中に煽っているとの感覚が産まれるのです。まぁ世の中にはブームに乗っかることに違和感がなく、イヤむしろ進んで乗っかることに喜びを感じるヒトが多くいます。ワタシのように煽られることを嫌悪する方が少数でしょうね。

 この冬は記録的な降雪や寒さですが、天気予報で「この冬一番」というフレーズが出てくると恐怖してしまいます。TV局は警戒を促すために使っている言葉でしょうが、聞かされるほうは恐怖でして、これ煽っているとも感じられます。ワタシTV見ませんが、TVというメディアには何かを装った煽りがいっぱい隠れているのではと思うのです。”何かを装った煽り”これ上記の「10の戦略」にあるように、実に巧妙で、実に狡猾です。

 ・・・と消費することばかり書きましたが、世の中消費ばかりで回っているわけありません。我われは消費者であるけど、同時に生産者や販売者であるわけです。”扱うブツ”が見えるものであれば分かりやすいのですが、保険のような”信用”もあるわけで、生産者や販売者も一括りにはできません。そんなわけで世の中、消費も生産や販売も玉石混淆なのです。

 混淆であれば、混淆でいいのです。(イヤ混淆しかあり得ない。)平準化された、偏らない混淆が望ましいと思いますが、世の中ってすぐに偏ってしまいます。安部チャンのように、針のような改憲論を棒のように囃し立てるヤカラもいます。こと経済面からすると、針なのか棒なのかは重要なことで、多くの針で世の中が見えにくくなることもあるのではないでしょうか?(ビットコインの件が多く報道されるのは、短期的にはマイナスな情報でも、長期的に見るとイイ宣伝なのかもしれません。)

 やっぱり経済の話しはワタシでは無理なようです。でもワタシ、基本的に”見えないブツ”を増やすのは良くないと思うのです。電気にしても、電波にしても、保険にしても、仮想通貨にしてもです。だって「うちの電波、うちの仮想通貨はいいですよ」と言われても困るし、同じく真偽不明なコンサルや口利き料なんてものは無いほうがいいと思うのです。 誰にでも分かりやすい価値、金額が想像できるブツだけで、経済が回ってゆくほうがいいのではと思うのです。煽られるのはイヤです。

バカな生き方

 2018年になりました。昔のように、戦前のように1月1日に年を重ねるわけではないけど、元旦にはそう思わせるものがあります。昔々、人々は夏至と冬至で年を測っていたのでしょう。だから夏至と冬至の時期に何かを祀りたいのでしょうか?生きていることを、祀りたいのでしょうね。

 今回はひとりのオトコのことを、詳しく知ってはいないけど、彼の残したものから感じることを、この日に・・・。

 マイケル・ブルームフィールドの海賊版のようなライブ盤を購入しました。「Live At McCabe' Guiter Workshop,January 1,1977」というタイトルですが、Workshopというよりは普通のライブです。いかにも一発録りと思わせるコーラスの入り方ですが、いつもどおりな雰囲気がステキです。

 これを聴いていて感じるのは、マイケル・ブルームフィールドという人物の生き方です。とても不器用な生き方です。 彼は10代の終わりごろから「ギターの申し子」と呼ばれていました。ポール・バターフィールド・ブルーバンドでとエレクトリック・フラッグで世界に勇名を轟かせ、スーパー・セッションで稀代のギタリストとなりましたが、その後は薬物禍で活動範囲は狭められ、37歳で亡くなりました。

 「ブルースに葬られた」といえばカッコいいですが、早世を望むものは無く、名声や富を望まない者も無いのに、なぜ彼は薬物に立ち向かわなかったのかと思うのです。そうは思うのですが、その反面、彼の生き方はそれで良かったとも思うのです。そう、彼が望んでいたものは名声ではなく、また富でも無かったのではないかと・・・。

 「弱さの肯定」。自らの弱さを認めることですが、なにか彼は「弱さ」を、ヒトの「弱さ」を肯定してくれているように思えるのです。ヒトに怒られるのは自らを否定されることですが、なにか最近は先手を打って、「褒められて伸びる子です」なんて否定を先に否定しようとしているようですが、自らの本当の弱さを知ることは大切なことじゃないでしょうか?そしてヒトの弱さを知ることも・・・。

 このところ「ブルースとは?」と考えていましたが、もう1つ答えが出ました。「ヒトの弱さを知る」です。答えは1つではなく幾つもあるのです。肝要なのは、自分で分かったと、理解できたと思わないことじゃないでしょうか?探しものをいつまでも探し続ける。それが生きていくこと・・・?

 楽天的に生きていければいいのですが、計算して計算どおりに生きていければいいのですが、そんなヒトはまずいないでしょう。ヒトの世はどこかで何かが狂うもので、狂ったときに必要なものはヒトの優しさです。マイケル・ブルームフィールド、彼の音楽にはそんな優しさが感じられます。バカな生き方とも思われますが、どんな成功者よりも、彼の声や音は優しく聴こえてきます。・・・ちょっとお屠蘇で酔っています。

探石行


 タイトルは「探石行」となっていますが、内容は「胆石考」かも知れません。つげ義春さんの漫画でたしか多摩川の上流に”石”を探しに行く「探石行」があったように思いますが、でもこれはどこにも行かないグ~タラで、胆石かもしれないアヤフヤな「探石行」です。

 ワタシが胆石を産したのはもう一月以上前のことです。胆石というから”石”かと思っていました。尿管結石はもっと”石”らしいのですが、ワタシの胆石はぜんぜん”石”らしくなく、ただのどす黒い泥の塊のようなものでした。過去形なのは、昔のフィルムの容器のようなものに入って、採取日時、産出検体(ワタシですね)の名前、石の種類まで記してありましたが、放置しているとカビは生えるわ、ヒビは入るわ、犬のウ○コみたいで「こんなもの!」と捨ててしまいました。

 捨ててしまってもいろいろ記してある容器は残るわけで、容器を眺めていると「こりゃ”石”が要るわな」と思えてきまして、それで探石に行かねばと思い至ったわけです。

 小さな石ころをどこぞに探しに行くのですが、要は犬のウ○コに似た石を拾ってくればいいので簡単なことと思えますが、これが以外や難しいことだったのです。試しに家の近状をプラプラすれば分かりますが、転がっている小石はどこやらから運ばれてきた瓦礫が小さくなったものばかりです。その地域で産出された”石”、元々がその地域に埋もれていたはずの”石”ではなく、どこぞで産出され、砕かれたものばかりじゃないかと思われるのです。

 ん、なぜ産地に拘るのか?と思われるでしょうが、それは本当の産地がワタシ自身だからです。私の体から、ムリヤリ砕かれた小石、青い灰色の小石が出てくる分けないし、セメントがコベリ付いた小石が出てくる分けありません。ワタシから出てきた”石”らしいものを探さなければならないのです。そうすると近所の道路脇に転がっている小石は、なにか”石”なのに人工物に見えてくるのです。ヒトがムリヤリ砕いたものだからでしょうか?

 ヒトの手が入っていない、自然に小さく丸くなった”石”はどこにあるのか?こんな問題に突っかかってしまいました。同じ落ちているものでも鳥の羽根や木片であれば、産出した大元は想像できますが、想像であって断定はできませんが、”石”の産出元は想像すらできません。そうだとすれば、出来(しゅったい)は問えないのです。

 まぁ元々が胆石の贋物ですから、出来なんてオオゴトを考える必要はないのですが、そこを空想してしまうのがワタシの悪癖です。それが”石”の出来や地域の環境にまで及んでしまいました。さらに”氏より育ち”という言葉まで浮かんできました。まぁ胆石だって、どうやって産まれて、どうやって成長し、いつ暴れだすかは分からないことで、そんな”石”の氏や育ちって何よ?あ~、アタマがこんがらがって来た。妄想はこのへんで・・・。

ブルースって?

 今年もお彼岸となりまして、毎年のようにニョキニョキと姿を現す彼岸花に、毎年のように感心しています。今年の夏は異常でして、ここにきてやっと季節がフツ~かなと感じています。

 先日、知人の中高年の女性(女性の年齢の推測は難しいので・・)と喋っていましたら、新宿でReiのミニコンサートを観てきた話しとなり、Reiをどう説明したらよいか、切り出さなきゃよかったと少し悔やんだのですが、「ブルース」という言葉を多少知っているらしく、「そんなに凄いギタリストなの?」とちっとは興味を持ったようでした。

 そして数日後、再び顔を合わせると「Rei、YouTubeで観たけど凄いね」とのこと、さらに「うちのダンナがああいうのを好きで気に入ったみたい」と。「それはようござんした」と思っていると、「Reiは自作の明るい曲よりも、古い曲をバリバリ弾いているほうがいい」と、さらに「古いブルースってどんなものかと、ダンナがブルースを聴きたい」とのこと。

 ワタシ返答に詰まってしまいました。おそらく50歳前後のオジサンに「ブルース」を教えるなんてトンデモナイことです。マイケル・ブルームフィールドだったら「オレが教えてやる」とダレ構わずいうでしょうが、ブルースの沼はとても深くてとても広い。ワタシなんて東洋の片隅でコソコソ聴いていて、ブルースの百分の一、千分の一くらいしか聴いていないのに・・・。

 もう30年以上前のこと、当時働いていたカメラ屋の社長の三男坊、これが音楽好きでして、うっかりバターフィールド・ブルースバンドの名前を出したら喰い付いてきました。話しはバジー・フェイトンやデビッド・サンボーンにまで及び、ワタシより余程の重症でした。そうなんです。ブルース好きは世間から見えない所に隠れて棲息していて、同好(同病?)の士とまみえる機会はほとんどなく、ブルースをヒトにおススメしようなんて思っていません。そんなんでヒトから「ブルースを聴きたい」と言われると困惑するのです。

 ブルースの沼は深くて広いのです。それに、演奏者が「これはブルースだ」と言えばそうでしょうし、聴くほうが「ブルースみたい」と思えばそうでしょう。病が嵩じれば、淡谷のり子が最高のブルースシンガーともなるでしょう。でもこれをヒトに説明するなんて、途方もないことです。

 ソニー・ボーイやハウリン・ウルフ、ジョン・リーやスリーピー・ジョン、マディ・ウォーターズ・・・。それからポール・バターフィルドやマイケル・ブルームフィールドといった白人ブルースマン・・・。そして日本の憂歌団・・・。ほかにもイッパイいて、とてもワタシの手に負えません。さてさて、このブルース話しどうなることやら。
プロフィール

等閑堂

Author:等閑堂
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